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2016/06/21

日記

 約束の時間には、雨はすっかり上がり、空気は季節に見合った熱を帯びていた。私は目的地までただ横をついて歩いていただけだったけれど、道にはふつうより大きな水たまりもあれば小さな水たまりもあったので、よく目を凝らすことが大切だった。

 一段目が異様に高い階段を上り、緑があふれるお店に入ると、中は白を基調とした装飾が施され、たくさんの天蓋カーテンで席が仕切られていた。私たちは約70個のキャンドルがぶら下がるテラス席に座った。

 

 果物の入った、さわやかな色のドリンクで乾杯したあと、大きな生ハムとあふれんばかりの瑞々しいルッコラが盛られた器が運ばれてきた。夏の始まりにはぴったりの料理だった。サラダを取りながら、私は彼に、今まで石造りの建物の中にある世界が当然だと思っていたものの、いざ社会に放流されると、世の中で最も当然のものなど存在しないということに驚いた、と伝えると、彼は、自覚を持つことは防御につながる、無自覚でいることに対して、よく気をつけなければいけないよ、と教えてくれた。

 

 話し相手が違ければ、当然ながら、話題も異なる。それから彼は、1961年にアドルフ・アイヒマンが裁判で露呈させた虚しさと、民衆の哀れで救いようのない絶望について話してくれた。ナチスドイツの一連の悲劇は、思考停止状態の生み出した巨大な空疎の塊であり、ドイツの哲学者ハンナ・アーレントが「陳腐」と形容したのにも少し頷けた。おそらく私と彼に共通しているのは、この出来事を、昔に起きた、ヨーロッパだけが関わる問題という風に捉えることを厭う点だった。

 そういった話のさなか食べたピザは、チーズが思いのほかふわふわで、二人で驚いてはしゃいでいた。甘いピザだった。私は不老不死ではないので、そのことに対して憂い沈むよりも、美味しいものを少しでもたくさん食べて、毎晩楽しくやるほうがずっと素敵に違いなかった。

 

 他にも宗教の話をタブー視するとはどういうことか、というのを切り口に、私たちは言葉を使って、うんうん唸りながら、宗教や社会との関わり方を一緒に模索した。高校時代の話も少ししたが、あの頃は、時代が進むことや、自分たちの身の振り方について悩む日が来るなんて思いもよらなかった。時間と人生と物語の尺度が少しずつ縮まっているような気がした。ただ、この日に言語化することによって発見した、当時の私と変わっていない点は、心の平穏は、不穏に打ち克つものだと信じている点だった。

 

 いつの間にか時刻は帰宅予定時間を過ぎていて、テラスには、空間が許す限り吊るされたランタンの橙色が、ぽわぽわと無数に灯り、宙に浮かんでいた。

 後から気が付いたことだが、この日は夏至だったのだ。どうりですべての空間が夏のものと化していたわけだと、納得した。熱をはらんだ人の群れの中で、何事もなく越えることができないような夏の存在を感じていた。